6/3は「自転車の日」だそうです。
- setakayabase
- 2024年6月4日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年8月29日
本日は「世界自転車Day」との事。

高校1年生(15)の夏。同級生3人で愛媛県は佐田岬(四国最西端)を目指す!
1980年代、今から40年以上前の出来事ですが・・・
僕の「自転車ライフ」が始まりました。
母子家庭で薄汚い町営住宅での学生生活😢
高校を奨学金を借りて卒業したと言う辛い貧乏生活の中、唯一の心の寄りどころが自転車であり、ペダルを漕いでいる間だけでも楽しめた毎日。
片道25kmの高校まで電車&バス代を浮かす為、雨や雪が降ろうが毎日自転車通学していた頃、自転車が故障して立ち寄った西条町の小さな自転車屋さんで運命が変わったような気がします。


学校の枠を超えた自転車仲間達と遠征。
ロードレーサー風(ルックタイプ)の安物自転車での僕でしたが・・・
チームの方々に付いて走っていたところに、店長(自転車屋のオーナー)が面倒を見てくれるようになり、本格的にロードレースに参戦する事に。
バイトを掛け持ちして手に入れてロードレーサーを購入!チームの方々と練習とレースに増々のめり込んで行きました。
相変わらずの貧乏生活でしたが一切グレる事もなく、バイトと仲間との練習に高校生活を過ごしたような気がします。

1番仲の良かった高校時代の同級生と台風接近中の高知県での思い出は一生忘れないと思います。
強風で自転車が前に進まず、このままでは太平洋側は危険だと感じて雨の中を必死にペダルを漕いで瀬戸内海まで戻って来ましたが・・・フェリーは欠航😢
観光どころかトレーニングの為の「旅」でしたねぇ(笑)
それも良い思い出。
その友達が3年前に病気で亡くなりました。
彼とは学生時代、自転車でいろんな所に出掛けて行き卒業後も車で時々遊びに行っていた仲間でしたが50歳半ばの死にはかなりのショックを受けました。

高3の夏過ぎからプロを目指す為、トラック競技に転向!
当時は自転車=競輪=ギャンブルとイメージされ、自転車競技は今の時代の様な「市民権」を得る時代ではなかったです。
悪く言えば受け入れてもらえないマイナースポーツ。
それでも実力の有る先輩や後輩と共に「インターハイ」や「国体」を夢見ましたが、学校がクラブとして認めない以上は選手登録も出来ず大会参加は出来ません。
県内の自転車部のある高校の監督さん方々にお願いして交渉してもらいましたが、我が校はダメとの事。
最終手段として生徒のトップになって戦うしかないと生徒会長に立候補。
当選して校長室や体育教官室に何度も交渉に行きますが・・・全く相手にされません。
「同好会」としては認められ、部室の鍵を手に入れたのが精一杯でクラブとしての大会出場は一度も叶わなかったです。
(クラブでないと参加は認められていない時代の為)。
その上、生徒会の仕事が増えた為に練習時間も減る始末😢
3年生の夏、進路を決める頃には登録外選手でのレースに参戦するもBIGレースでの結果が出せていない為、自転車で食べて行くにはプロ(競輪戦手)になるしか方法が浮かばず、競輪学校の受験に備えますが受験までの期間がほとんど無く、更に奨学金を借りて強豪大学の自転車部で結果を出してロードで取り組むか?
最後まで悩みましたが「生活に余裕のない我家」の事を考えると、これ以上は親に負担はかけられないと、一旦企業に就職してそこから競輪選手を目指す事になりました。
当時の「高校生の浅はかな考え方」は社会人では通用せず、某農業機械販売メーカーに就職した為に入社後は同期は教育期間ですが、僕は農業高校卒なので営業の先輩の指示で朝早くから夜遅くまで御得意のお客さんの田んぼや畑で1日中、トラクターで農地を耕したり麦の季節なのでコンバインで刈り取ったり・・・
寮に帰ればそのままベットにぶっ倒れていたので2~3ヵ月は練習どころか自転車に触れない日々が続きました。
そこで社会人不適合者になる覚悟で退職してプロの競輪選手に弟子入りする事に決断!
「御縁」があり、僕が高校時代からの練習する姿を見ていた方がプロの競輪選手に声を掛けて下さり、チャンスをいただいきます。
母親にも4人妹弟にも迷惑をかけるので(無職)最後まで悩んで、受験のチャンスは1度!
※実技である1000mTT(1kmタイムトライアル)の合格ラインが1分13秒が微妙なところでしたが、広島県No1の師匠の指導の元でそのタイムが切れるように猛練習しました。
世話してくれた方には「草野球の選手がカープの古葉監督に教えてもらうようなものだ!」と言われた言葉は今でも忘れない。
肉体改造の為に1日4食、午前中のロード練習でのモガキは毎回ぶっ倒れそうになる位激しく、ローラー台でのダッシュの練習は機材の下は汗で大量な水溜まりが出来る位と凄かったです。
本物のプロの生活を知る機会だったと思います。
練習を終えて高級車でゴルフに行ったり、クラブに行ったりと毎日が派手な競輪選手に生活の様に一般の方々には見えますが、この練習とレース遠征で戦う事はプロ意識の中で作り上げられているのだと18歳の夏に見ていました。
そして運命の記録会を迎えます。
短期間で準備しての1発勝負!
自信は有るものの経験値はほぼ無いに等しい。
結果から言えば1分14秒代と1秒が縮まらず挫折😢
たくさんの方に迷惑をかけた上での、プロ選手を目指しての果たせなかった夢。
もう1年やれば・・・と言う暖かい言葉もいただきながら1チャンスでの母親との約束だったのでプロ挑戦の道はここで終了。
人生初めての挫折を味わってTHE END。
その後は自転車は趣味程度と言いつつ乗るものの、翌年からは体調を崩して・・・
結局はメンタル面が弱くて追い込まれていた事に後から気づきましたねぇ。
21歳、通勤中に電車で倒れ病院へ!
胃潰瘍と十二指腸潰瘍でそれぞれ3分の2を切除。
精神的に心が壊れていたんでしょうねぇ。
4~5年は食べる事に苦痛を感じながらの療養生活。
結婚して親父となり長男が3歳になった頃、親父との良い思い出が無い僕にとっては子供との時間を大切にしたいと共通のスポーツが出来ないか?
その為にと、県内で活動中のいろんなスポーツを見て周りました。
モトクロス(エンジン付きバイク)やレーシングカート、スケートボードやカヌーに登山などなど。
その中でBMX(バイシクルモトクロス)と出会い、子供でも「補助輪」が外せた瞬間にレースに出れる事を知ります。
僕も多少の自信が有った事もあり挑戦しました!


気が付けばハマってしまいキャンピングカーで自走自炊しながら全国遠征。
普通の親とは違い、子供に接している時間だけは長かったと思います。
思い出もたくさん残せましたしねぇ(^^♪

1997年31歳。プライベートチームの『Team"飛”FLY』を結成し仲間と共に広島から
”全国制覇”を目指す!
関東、関西と凄い選手層の中で広島の”田舎猿”軍団が簡単には敵う訳もなく、自転車のセッテイングから練習方法、レースの勝ち方など本場アメリカのビデオや雑誌を見ては勉強して独学でコーチングからメンテナンス及びライダー(選手)として取り組む事になります。


関東&関西のレジェンドを抑えて”優勝”。初の国際レースも表彰台(3位)をGet!
結果が付いて来た瞬間でした。
全日本30歳オーバークラス 1997~1999年 3連覇
1999年 KBU(関西地区)シリーズ戦 ボーイズクラス(全年齢) 1位
2000年 念願の#1を獲得!
18歳の時の挫折を30歳になり自転車競技の種目は変わったものの・・・
マイナースポーツとは言えアマチュア選手として「日本一」の称号を得る事が出来ました。
(※プチ自慢話でスイマセンm(__)m。)


そして現在50歳代後半。
今も自転車に乗り続けている事が出来ている日々に感謝しております。
後どの位、自転車に乗り続けれるかは分かりませんが・・・

まだまだ乗り続けたい・・・。
暖かく見守っていただけると幸いです~(^^♪
「自転車の日」と言う事で長文になりましたスイマセン。
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