「戦後80年 【人間魚雷 回天】を通して考える」
- 世高屋ベース
- 12月21日
- 読了時間: 4分
更新日:1 日前
広島県人としての僕の想い。

「瀬戸内紙芝居」の河野(こうの)氏。
今年6月1日の「動物愛護:犬猫譲渡会」のイベントで知り合い意気投合!
彼の紙芝居の演目の中で見つけた「人間魚雷 回天」。
忘れかけていた記憶が蘇りました。
「回天」とは・・・ https://www.rekishijin.com/23346
2025 6/2中国新聞デジタルより抜粋☟ イベントの翌日(6/2)の記事より
(タイムリー的な記事に驚きました)

「戦後も長らく、回天のことは口に出してはいけない雰囲気があった。
だから知れば知るほど、後世に伝えることが大事だと思ってね」。
山口県周南市桜木の中村政義さん(90)は、15年前から市観光ガイドボランティアに登録し、旧日本海軍の特攻兵器「回天」の訓練基地があった大津島を担当している。
修学旅行で訪れた小中学生たちを記念館や訓練基地に案内し、島の歴史を伝えてきた。
「今とは価値観も異なるが、当時の若者がどんな思いで戦争と向き合ったのか考えてほしい。
子どもたちには、大人になったらまた島に訪れてほしいと告げるんです」。
10歳で終戦を迎え、平和な時代に生きたからこそ思う。別れ際、愛用のハーモニカで軍歌「海行かば」を演奏するのは、反戦への思いからだ。
周防灘に浮かぶ約4・7平方キロの大津島。1944年9月、国内で初めて回天の訓練基地が開設された。
戦局の劣勢挽回を目的に、魚雷に人が乗って敵艦に体当たりする極秘作戦。
同年11月、最初の出撃隊「菊水隊」が3隻の潜水艦でこの島から出撃した。
全国の犠牲者は整備員や訓練中の事故死を含め、145人に上る。
島にあった整備工場と訓練基地を結ぶ長さ約250メートルのトンネルを中村さんと歩いた。
回天を運んだトロッコの黒いレール跡が床に残っている。
搭乗が死につながった回天の暗い陰影にも見える。
壁面に展示された、出撃前の搭乗員たちの写真の前で中村さんは立ち止まり、惜しむように何度も若者たちの姿を指でなぞっていた。
トンネル奥の桟橋の先に、コンクリート構造の「回天発射訓練基地跡」がある。
全国に4カ所訓練基地ができたが、現在も遺構が残るのはここだけだ。
80年以上前、のどかな島の周囲で若者たちが訓練を繰り広げた。
空から見ると、穏やかな周防灘の沖で日が傾き、慰霊に訪れた母子のシルエットが浮かんだ。(写真と文・安部慶彦)
回天 魚雷に大量の爆薬を搭載し、1人乗りの搭乗席を内部に設けた直径1・0メートル、全長14・75メートルの特攻兵器。太平洋戦争末期、「神風特別攻撃隊」とほぼ同時期に登場した。大津島の基地は当初、魚雷の発射試験場として1939年に造られた。44年に回天基地が設けられ、操縦訓練が始まった。訓練基地は大津島と、光市、平生町、大分県日出町の4カ所に開設された。

社会人1年目の僕は「競輪選手」を目指し退職してプロ選手に弟子入り。
とは言え1度きりの挑戦に失敗し18歳の僕は同級生に遅れを取り、当時の恩師に相談。
「自衛隊」の道を勧められ入隊する事に・・・。
空に聳ゆる鳳翩の 山の姿を仰ぎ見て
決意も堅く集い来る ああ栄光のこの隊舎
率先つとに奮い起つ 第112教育隊
歴史栄えある山口の 父祖の血潮が今我を
励まし教う声を聞く ある信愛のこの隊舎
百万全て一と成す 第112教育隊
いまでも口ずさむこの歌。わずか3ヶ月の教育期間だったがここ山口での経験は今でも大切な思い出であり僕を支えてくれている。


自分と同い年の若者の『死』と向き合う写真を見た時の衝撃は忘れない。
白黒写真でありながらも「目」は輝き恐れるモノを感じさせない表情に驚きと当時の政権に
振り回され命を奪われた者もいる。
戦争だから・・・
平和な世の中に産まれた僕らにとって「原爆」以外に戦争の悲惨さを知った「回天」の存在。
自分達が「日本国を守る」と言った使命を背負い日々訓練していた時だからこそ
「彼らの戦争による運命を忘れてはならない!」と同期の仲間と話した覚えが残っている。
18歳の幼かった純粋な想い。
戦後80年の今年、「回天」について勉強し、自分なりの【フォトリポート】を制作する事に決定!
資料集めに動くものの・・・





言い訳になるが忙し過ぎて取り掛かれず年末を迎えてしまった😢
大津島に渡る事も出来ず終わったが、この【フォトリポート】は来年に持ち越してしまうが必ず公開したいと思う。
今後ここにも寄ってみたいと計画中。

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